Exhibition on Chiune Sugihara. Introduction

PANEL NO 1

杉原千畝     希望のビザ

杉原千畝は1900年に日本の田舎の中流家庭に生まれました。東京の早稲田大学で英語教師を目指していましたが、経済的事情により学業を断念せざるを得ませんでした。その後、外務省の採用試験に合格し、これにより国費で学ぶ機会を得ただけでなく、外交官としての道も開かれました。1939年、杉原は、カウナスでの日本領事館開設とともに、ソビエト連邦に関する機密情報を収集する任務を帯びて派遣されました。第二次世界大戦勃発直前の8月28日、家族とともにカウナスに到着しました。

1940年の夏、ソビエト連邦がリトアニアを占領すると、日本領事館の門前に、ナチス・ドイツから逃れてきたポーランド出身のユダヤ人が何百人も押し寄せました。二つの全体主義体制の間で身動きが取れなくなった難民たちにとって、日本の通過ビザが自由への唯一の道でした。しかし、日本政府が定めた規則では、必要な資金を持たない者や、受け入れ国のビザを持たない者に対しては、通過ビザの発給が認められていませんでした。

決定的な転機は1940年7月から8月に訪れました。杉原は、難民たちの絶望的な状況を見て、最終的には自らの良心と深い人道主義の原則に従うことを決意しました。

当時、カウナス駐在のオランダ名誉領事ヤン・ズワルテンダイクは、オランダ領のキュラソー島への入国にはビザが不要である旨、難民申請者のパスポートに記載しました。このパスポートへの記載により、日本の副領事の杉原千畝が発行した通過ビザと相まって、難民たちがソ連占領下のリトアニアから脱出する条件が整えられました。

杉原が発行したビザの公式リストには2139名の名前が記録されていますが、ビザは家族全員にまとめて発行されることも多かったので、救われた人々の数ははるかに多いものでした。杉原は、早朝から深夜までビザを作成しました。妻の幸子は、杉原の腕を毎晩マッサージして、翌朝また彼が書き続けられるようにしていたと後年語っています。杉原は領事館を退去して、近くのホテルに泊まっていた間も、この仕事を続けました。

 

早稲田大学在学中の杉原。1918年頃

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

杉原が軍務に就いていた頃、韓国で行われた母の葬儀の際に撮影された写真。1920年

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

満州国外務部の杉原の執務室。1932–1935年

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

杉原一家。左から、幸子の妹節子、杉原千畝、息子の千暁と弘樹、妻幸子。在カウナス日本領事館にて。1939年

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

カウナスで1940年7月及び8月に杉原が発給したビザのリスト。1941年プラハにて作成。

日本外務省外交史料館

難民のソロモン・ベッカーの海外渡航書類。ヤン・ズワルテンダイクによる「キュラソーへのビザは不要」との記載と、杉原千畝が発給した日本のトランジットビザがある。

杉原「命の外交官」財団のアーカイブ

PANEL NO 2

杉原千畝     諸国民の中の正義の人

杉原千畝は、自らの道徳的な選択に対して高い代償を払うことになりました。カウナスから退去した後、杉原はヨーロッパで外交官の職務を続けました。1947年に日本へ帰国すると、辞職を求められました。元外交官は、翻訳や商社の代表といった一般の仕事に従事し、家族を養うために、ソ連の輸出会社の代表として働きました。

数十年にわたる長い間、日本国内では杉原の英雄的行為について知られることはありませんでした。これらの出来事が世間に知られるようになったのは、1968年、救われた一人であるヨシュア・ニシュリ(当時、在京イスラエル大使館に勤務)が、やっと杉原を見つけ出した時でした。ニシュリは、自分の命の恩人であるその人物を、数十年もの間探し続けていました。杉原が世界的に注目を集めたのは1984年、世界ホロコースト犠牲者記念館「ヤド・ヴァシェム」が「諸国民の中の正義の人」の称号を授与した時です。杉原は、この栄誉を受けた唯一の日本人です。

杉原は1986731日、86歳で亡くなりました。彼の物語は、たとえ最も困難な状況にあっても、正しいことを選ぶ勇気を持った一人の人間が、何千人もの運命を変えられるということを証明しています。

日本領事館の階段(住居への入口付近)に立つ杉原と家族。後ろに立っているのは、領事館の秘書であるリトアニア出身ドイツ人のヴォルフガング・グッジェ。カウナス、19405月~6月。

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

1940年ベルリンでの杉原一家。カウナスの領事館が閉鎖された後、新たな赴任先を待つ間、杉原はヨーロッパにおける日本の主要な大使館であるベルリンへと向かった。1940年。

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

着物を着た杉原と妻幸子。ルーマニア、1942–1944年。

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

イスラエル大使館での授賞式において、杉原がイスラエルのイツハク・シャミル首相と面会した様子。1985年、東京。

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

鎌倉の自宅での杉原と妻幸子。1980年頃。

写真提供:NPO杉原千畝命のビザ

PANEL NO. 3

杉原家とヴィリニュスとの関係

杉原千畝の領事館は、当時臨時首都であったカウナスに置かれていましたが、彼の偉業のルーツはヴィリニュスとも深く結びついています。ここには、ナチス・ドイツから逃れてきた何千人ものユダヤ人が(大半はポーランドから)集まり、その多くが「命のビザ」を受け取りました。

リトアニアが独立を回復して以来、杉原の家族はヴィリニュスを何度も訪れました。特に印象深いのは、1992年の杉原の未亡人・幸子の来訪です。これは、50年以上経って初めてのリトアニア再訪でした。杉原家の他の方々もヴィリニュスを訪れており、その中には息子の杉原伸生や、NGO杉原千畝命のビザを率いる孫娘の杉原まどかも含まれています。この団体は、杉原の遺志と人道的な価値観を世界中で広めることを目的としています。

杉原の名前は、ヴィリニュスのいくつかの場所に刻まれています。ホロコースト展示館のそばには、1992年に建立された記念碑があり、三日月を空へと掲げる抽象的な人物像が表現されています。これは彫刻家の北川剛一とヴラダス・ヴィルジューナスが制作したものです。また、ヴィリニュスのヴィルシュリシュケイ地区には「杉原通り」があり、ネリス川の右岸には「桜公園」が整備されています。ヴィリニュスの桜は、杉原が大切にした価値観の象徴となっており、前述の記念碑のそばにも一本の桜が育っています。また、カウナスには「杉原記念館」があり、そこでこの外交官の功績についてより詳しく知ることができます。

様々な容器やカゴを手に食糧を待つ戦争難民の列(大半は女性)。ヴィリニュス、1939年。エドムンダス・ズダノフスキス撮影。

M. K. チュルリョーニス国立美術館

ヴィリニュスのあるシナゴーグに身を寄せる戦争難民のユダヤ人たち。ヴィリニュス、1939年。エドムンダス・ズダノフスキス撮影。

M. K. チュルリョーニス国立美術館

左から:ヤン・ゴールドシュタイン、マルク・ノヴォグロツキ、シムキナス。

戦争から逃れるため、ノヴォグロツキは1940年1月1日にヴィリニュスへ逃れ、ポーランドからの他の難民たちと共にここに滞在。アメリカ合衆国に移住していた父親の助けを借りて、米国ビザ取得に成功。1940年9月、リトアニアから日本へ渡り、無事にアメリカへ移住。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館

ヴィリニュスでのアブラハムとマーシャ・スヴィスロツキ夫妻。アブラハムが先にヴィリニュスに到着し、その後、妻と息子のノルベルトが合流。戦争勃発時、ノルベルトは3歳。アブラハムがカウナスで発行された杉原ビザの存在を知り、家族のビザを取得。1941年初頭に出発し、ウラジオストクと上海を経由してアメリカ合衆国に到達。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館

スヴィスロツキ一家はヴィリニュスに1年間滞在。過越祭ペサハの折の写真。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館

戦争難民となったハヤ(右から2番目)とフェイガ(左)のシェプセンヴォル姉妹が、日本へ出発する前に、ヴィリニュスで友人たちと撮影した写真。1939年、ソ連軍がヴァウォジンを占領すると、姉妹はヴィリニュスへ避難。1940年11月22日、ハヤとフェイガは横浜からサンフランシスコに到達。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館

左から:ヨセル・ムロテック、ヨゼフ・フィッシュマン、そしてアブラハム・シュルマン夫妻、大阪城公園にて。ヨゼフは1918年10月5日ポーランド生まれ。ナチスから逃れるため、イディッシュ語作家のヤンケリス・フィッシュマンとその息子ヨゼフはヴィリニュスへ避難。ヴィリニュスで、ヨゼフはユダヤ学術研究機関YIVOに就職。1940年8月、父と息子は杉原ビザを取得し、1941年初頭に出発。二人は日本や中国で文学活動を続け、最終的にはアメリカ合衆国に到達。

アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館

杉原千畝の未亡人である杉原幸子と、嫁の杉原美智の、ヴィリニュス・ガオン・ユダヤ歴史博物館の芳名帳への書き込み:

 

カウナス領事の主人にかわって此所に記念館を造ってくださるリトアニアの方々に感謝致しますと共に皆様のお幸せを祈ります。

1992-07-13    杉原幸子

 

全世界の永遠の平和を願って

1992-07-13    杉原美智

オーガナイザー

在リトアニア日本国大使館  

ビリニュス・ガオン・ユダヤ歴史博物館

パートナー

NPO杉原千畝命のビザ

杉原記念館

リトアニア共和国国会

ビリニュス市役所

キュレーター

マンタス・シクシュニャナス

レナタ・ティトヴィエネ

展示デザイン

マリヤ・ユレ

スタンド制作

アルーナス・ケジュティス

スタンド設計

ラウラ・フクモト

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